「これで十分」と言った妻が、私に教えてくれたこと

健康ーライフスタイル

妻がリビングでゲームを始めた音がする。

私は寝室でパソコンを開き、ブログの続きを書いている。

「これでいいのか」と、ふと手が止まった。

こんにちは、西風スマイルです。

58歳、サラリーマン歴40年、FIRA60(60歳リタイア)を目指しています。

休日の午前中、私はたいていブログを書くか、走っています。妻は何も言いません。「ランニングもブログも、良い趣味だから続けて」と言ってくれています。

それなのに、なぜか罪悪感が消えない。

この記事は、その罪悪感の正体を探った話です。そして最後に、13年間一緒に山を歩いてきた妻から、思いがけない答えをもらった話でもあります。

二人の「別々の時間」が生まれるまで

「私も行く」——ウルトラウォーク100kmから始まった話

振り返ると、妻と私の「一緒の時間」は、意外なところから始まっていた。

45歳。体重80kg、立ったまま靴下も履けない状態からスロージョグを始めた。走り始めてしばらくして、私が大会に出ると知った妻が言った。

「私も大会に出たい」

誘ったわけじゃない。でも妻は、ウルトラウォーク100kmの大会に一緒にエントリーしてきた。

あの頃の妻の足取りを、今でも覚えている。100kmを歩ききった時の顔も。

それから二人で、いろんな場所を歩いた。小辺路、大杉谷、アルプス(燕岳)、弥山、尾瀬。山小屋に泊まり、テントを張り、二人で朝を迎えた。

あの時間は、間違いなく私たちの「共有資産」だった。

転機は、私の方から来た

マラソンのタイムが上がり始めた。夏はトレイルレース、冬はマラソン(ロード、フル、100km)と、大会に没頭するようになった。自然と、二人で山へ行く回数が減っていった。

そしてその後、妻の膝が痛み始めた。

「一緒にやる」から「お互いの時間を楽しむ」へ。

妻はゲームを楽しむようになり、私はタイムを追いかけた。それは自然な変化だった。妻も私も、そう思っていた。

——少なくとも、私はそう思っていた。

今の現実:二人のタイムテーブル

妻は何も言わない。だからこそ

今、私たちの休日はこんな感じだ。

私はシフト制の仕事なので、休みは土日とは限らない。平日に休めることも多い。だから人が少ない平日に、二人で出かけることを心がけている。

ただ、予定を決めていない休日は、だいたいこうなる。

朝——私はブログを書くか、走りに出る。妻はリビングでゲームかテレビ。

午後——買い物、カフェ、外食。ここは一緒に動く。

一見、うまく住み分けできているように見える。実際、妻は気を遣ってくれている。

友人との予定は、私が仕事の日に入れてくれる。大会が近づくと、旅行の予定をずらしてくれる。妻がリビングでテレビやゲームを始めると、私が集中できないと知っているから——何も言わなくても、空気を読んでくれている。

「ランニングもブログも、良い趣味だから続けて」

そう言ってくれた言葉は、本心だと思っている。

それなのに、なぜか午前中になると罪悪感が出てくる。

仕事のない日、私はブログと走ることに時間を使っている。妻との時間は、午後からだ。

「午前中という黄金の時間を、私が独占している」

そんな感覚が、ずっと頭の隅にある。

それでも罪悪感が消えない理由

午前中というプラチナ資源

50代後半になって、はっきりわかったことがある。

午後のトレーニングは、きつい。

走り終わった後の疲労感が、以前とは違う。回復に時間がかかる。夕方以降、頭が働かない。これは気持ちの問題じゃなく、自律神経の回復力が落ちているからだと今は理解している。

だから午前中に走る。午前中にブログを書く。

「午前中」は、私にとって最も価値の高いリソースだ。体が動く。頭が冴えている。集中できる。

そのプラチナ時間を、私は走ることとブログに使っている。妻との時間は、午後からになる。

頭ではわかっている。これは合理的な選択だ、と。でも感情は、そう簡単に納得しない。

もっと深いところにある罪悪感

罪悪感の正体を、正直に書く。

仕事のない日、私はブログとランニング「しか」していない。妻は何も言わない。だからこそ、言えないのかもしれない、と思ってしまう。

もう一つ、もっと深いところにある罪悪感がある。

妻の体力のことだ。

膝を痛めてから、妻はあまり動かなくなった。ゲームが楽しそうで、今の生活に満足しているように見える。私はそれが、心配でならない。

FIRA60まであと2年。退職したら、二人でもっと動きたい。旅をしたい。山にも、また行きたい。

でも今、妻の運動習慣が育っていない。私が退職した時に、妻が体力的についてこれなかったら——

その未来が、頭をよぎる。

「もっと運動してほしい」と伝えたこともある。妻の答えはこうだった。

「誘われたら行くけど、自分からはこれで十分」

やり過ぎなのは、私の方なのかもしれない。

本当の懸念:FIRA60後の妻の体力

体力は、お金と同じだ

お金の準備は、ある程度できてきた。

資産5,000万円。インデックス投資。キャッシュフロー表。数字の上では、FIRA60は現実の射程に入っている。

でも最近、お金とは別の「準備不足」が気になり始めた。

妻の体力だ。

退職したら、時間が生まれる。今まで仕事に使っていた時間を、二人で使える。平日に旅行できる。気が向いたら山に行ける。「いつか行こう」と言い続けていた場所に、やっと行ける。

私はそのイメージを、ずっと持ち続けてきた。FIRA60を目指してきた理由の一つでもある。

ただ、そのイメージには「妻も一緒に動ける」という前提がある。

これはお金の話に置き換えると、わかりやすい。

老後の資産は、退職してから慌てて作ろうとしても間に合わない。だから今、時間をかけて積み上げる。体力も同じだ。退職してから「さあ動こう」では、土台がない。今から少しずつ、積み上げておく必要がある。

妻の体力は、私たちの「老後の共有資産」だ。そこへの投資が、まだ足りていない気がしてならない。

ただ、私は立ち止まる

「妻の体力が心配」と言いながら、私は本当に妻のために心配しているのか。

それとも、退職後の「自分のイメージ」を守りたいだけなのか。

「トレードオフ」を「シナジー」に変えるために

週単位で考える

整理してみると、私の「午前中」はこうなっている。

走ること——体力への投資。ブログを書くこと——知的生産と自己表現、そして将来の社会資本づくり。

どちらも削りたくない。どちらも、FIRA60後の自分に必要なものだ。そこに「妻との時間」も加わる。三つが同じ時間帯を奪い合っている。毎日「全部やろう」と欲張ると、どこかが赤字になる。

だから私が出した答えは、週単位で考えることだ。

毎日完璧にやろうとしない。一週間というスパンで、バランスを取る。走る日、ブログに集中する日、妻と丸ごと過ごす日。曜日でメリハリをつけると、罪悪感が減った。

「今日は妻の日」と決めてしまえば、午前中にブログを開かなくていい。「今日は走る日」と決めれば、妻も予定を合わせやすい。

答えはシンプルだ——誘えばいい

妻の体力問題については、一つ気づいたことがある。

「運動してほしい」と伝えても、一人ではなかなか動けない。それは妻の意志が弱いのではなく、そういうものだ。

私だって、一人では続けられなかった。45歳のあの頃、誰かに誘われていなければ、今の私はなかった。

だとすれば、答えはシンプルだ。誘えばいい。

妻は「誘われたら行く」と言った。それは十分な答えだ。一緒にウォーキングに出る。近所を少し歩く。カフェまで歩いて行く。それだけでいい。

「もっと運動を」と望むのをやめて、一緒に動く接点を増やすことに切り替える。これはトレードオフではなく、シナジーだ。妻との時間が、そのまま妻の体力づくりになる。

ブログは、将来の社会資本への投資

そしてもう一つ、私が変えようとしていることがある。社会資本の問題だ。

今の私には、会社の関係者と妻以外に、話せる人間がほぼいない。それが、ずっと頭の隅にある懸念だった。だからブログを続けている。いつか、ここから「仲間」が生まれると信じて。

FIRA60後、妻だけに依存しない人間関係を持てれば、妻への「重さ」も減る。二人の関係が、もっと風通しよくなる。

ブログは、私にとって「将来の社会資本への投資」でもある。

結論:今の「黒字」を信じる

罪悪感の正体は、愛情だった

妻は「これで十分」と言った。

その言葉を最初に聞いた時、私は少し寂しかった。もっと一緒に動きたい。もっと体力をつけてほしい。私の「もっと」が、満たされなかった気がした。

でも今は、少し違う見方ができる。

56歳でフルマラソン3時間30分を出した。その実績が、私に「もっとできるはず」という理想を植えつけた。お金も同じだった。資産5,000万円を積み上げながら、ずっと不安だった。「まだ足りないかもしれない」と思い続けた。

走ることも、お金も、妻の健康も。私はいつも「もっと」を求めてきた。それが私という人間だ。悪いことじゃない。その「もっと」が、今の私を作った。

ただ、妻の「これで十分」は、別の真実を教えてくれた。

今この瞬間を、丸ごと受け取ること。「十分」と感じられることも、一つの豊かさだ、と。

今の私を、数字で見てみる。

月間走行距離150km。(もっと走りたい!)
喘息のコントロール良好。
痛みなし。
妻との午後の時間。
平日の二人でのお出かけ。
38本のブログ記事。

これは「赤字」じゃない。どう見ても、黒字経営だ。

罪悪感の正体は、愛情だったと思う。

妻ともっと一緒にいたい。妻に元気でいてほしい。退職後、二人で行きたい場所がある。その気持ちが、「今のままでいいのか」という不安になっていた。

でも妻は今日も、私が走って帰ってくるのを待っている。午後には一緒にカフェに行く。それで十分じゃないか、と。

「やり過ぎなのは、私の方かもしれない」

そう気づいた日から、午前中のブログと走りが、少し軽くなった。

罪悪感を手放すことも、人生のポートフォリオにおける、大事な「資産の整理」なのかもしれない。

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