管理職昇進──答えのなかった数年間

キャリアジャーナル

こんにちは、西風スマイルです。

58歳、サラリーマン生活もかれこれ40年。60歳での早期リタイア「FIRA60」を目指しながら、お金・時間・健康・好奇心・社会資本という「五つの富」について、あれこれ考えています。

今回は、私が管理職になったときの話を書きます。

約40年の会社員人生のうち、49歳から52歳頃までの数年間の話です。これから管理職の打診をされるかもしれない50歳前後の方に、考えてほしいことも書いていますので、参考になれば幸いです。

実はこの記事、書き始めてから何度も手が止まりました。

あんなに大変だった時期のはずなのに、細部を思い出そうとすると、霧がかかったようになるのです。

記憶が曖昧なのは、トラウマと戦っているからなのかな、と自分でも思いながら、書いています。

会社の事情もあり、匿名性を保つため、少しぼかしながら話を進めます。ご了承ください。

「今日の17時までに決めろ」

辞令が出る1ヶ月ほど前のことでした。会議室に呼ばれ、上司からこう言われました。

「今日の17時までに決めろ」

質問は、一つだけしました。給料はどれくらい上がるのですか、と。答えは「10%アップ」。そして最後に、こう付け加えられました。

「嫌なら辞めてもいいけど、この課に在籍できると思うなよ」

衝撃でした。今なら間違いなく、パワハラと呼ばれる言い方です。ただ、10年ほど前のことで、当時はこういう打診が、平然と行われていました。断れないように追い詰める。それが、この会社の「打診」でした。

判断材料はほとんどなく、相談する時間もなく、タイムリミットは当日の17時。まともな判断など、できるはずがありませんでした。

不思議なことに、打診されてから17時までの数時間、自分が何を考えていたのか、今どれだけ思い出そうとしても、出てきません。覚えているのは、断れないように追い詰められた、ということだけです。人間、本当に追い詰められた時間の記憶は、残らないのかもしれません。

誰もやりたがらないポスト

少し、会社の内情を説明します。

私が打診されたのは、課長のように50人100人を束ねる管理職ではなく、10〜15名程度のチームをまとめる、チームリーダー職でした。当時の会社では、このポストが管理職扱いになっていました。

このポストには5つの席があり、優秀なプレーヤーほど断る、という文化が根付いていました。理由は分かります。残業代は消えるのに、責任だけは重くなる。現場のプレーヤーとして評価されてきた人ほど、割に合わないと感じるのです。断られるのが当たり前だからこそ、打診の仕方も「断れない形」になっていったのだと思います。実際、順番で言えば私の前に2人いましたが、1人は完全拒否、もう1人は事情があって他部署へ移った。それで、順番が回ってきたわけです。

後から気づいたのですが、私がこの席に入らないと、5つの席の誰かが、もう一つ上の管理職に昇進できない構造になっていました。つまり、「誰かを上げるために、私が上がる」。会社とは、そういうものです。

さらに言えば、会社は大きな合併を済ませたばかりで、ポスト再編成後は、このポストが管理職から外れるらしい、という噂も、うっすら耳に入っていました。期間限定なら、と心のどこかで思っていたのかもしれません。

入ってみて分かった、人間関係

就任して少し冷静になってから周りを見ると、5席のうち、私以外の4名中3名が、いわゆる仲良しチームになっていました。

初めから、疎外感はありました。私のところにだけ、詳細メールが来ていないことがありました。偶然だと思いたいですが、偶然が重なると、人はだんだん、確信に変わっていくものです。後になって部下から「よくあのメンツの中に、あのポジションに入りましたね」と言われたくらいです。今から考えると、よくあんな所に入ったなと、自分でも思います。打診されたときには、そこまで見えていなかったのです。

権限としては、少額の決裁権と、部下の人事評価の権限を持っていました。この人事評価が、大変でした。

評価には絶対評価と相対評価があり、相対評価の仕組み上、部の200名ほどの中から、必ず2〜3人には、悪い評価を付けなければなりませんでした。マネージャー1名とチームリーダー5名の会議で決めるのですが、当然、誰も自分のチームから悪い評価を出したくありません。そこには駆け引きも、えこひいきも、横行していました。

一度、私のチームの部下に、悪い評価が回ってきそうになったことがあります。結局、付けずに済みましたが、あの数日間の胃の重さは、今でも覚えています。

振り返れば、あの役職は、愚痴と人間関係のるつぼでした。上からの要求と、横の駆け引きと、下からの不満。その真ん中に立って、全部を聞く仕事だったのかもしれません。

前日16時の憂鬱

この時期の生活も、書いておきます。

出勤前の休日、16時には必ず帰宅して、自宅のPCの電源を入れていました。メールを処理し、仕事の状況を把握しておかないと、翌朝が怖かったのです。仕事とパソコンと携帯が、生活のどこにでもありました。

眠れては、いました。ただ、病院で薬をもらっていました。

それでも乗り切ろうと思って、休みの日の朝は、妻と気晴らしに、無理やりでも出かけるようにしていました。行きたいから出かけるのではなく、出かけないとまずい気がして、出かける。順番が逆なのですが、この習慣に、たぶん私は救われています。家に籠もってPCの前に座り続けていたら、どうなっていたか分かりません。

1年ほど経ってから、妻に言われました。「あの頃、鬱っぽかったよ。心配してた」と。自分では、まったく気づいていませんでした。乗り切っているつもりでいたのです。一番近くで見ていた人の言葉ですから、きっと、そうだったのだと思います。本人が一番、自分のことを分かっていないものです。

部下を殺さない

管理職になったとき、心に決めたことが、一つだけありました。

部下を殺さない。精神的にも、物理的にも、怪我もさせない。もし部下を亡くすことがあったら、そのときは、会社を辞める。

それまでの会社人生で、メンタルダウンした人も、死亡事故も見てきました。自分の部下がその目に遭うのなら、私は辞めよう。管理者になった瞬間、自分のゴーストがそう叫んだ気がします。理屈で考えたのではなく、自然に出てきた発想でした。どんな部下でも守ろうと思って、管理者になりました。

今考えると甘いですし、管理職の覚悟としては、もっと違う何かがあるべきだった気もします。でも、あのときの私は、真っ直ぐでした。

昇進時の研修で見た世界

新任管理職の研修は、全国から、海外拠点からも、300名以上が集められる大きなものでした。大手企業の嫌なところを凝縮したような場でも、ありました。

常務の挨拶の後の質疑応答で、壇上に向かって、明らかなおべんちゃらの「質問」が飛ぶのです。300人以上の前で、堂々と。ああいう世界を実際に見たのは初めてで、自分は違う星に来てしまったのかと思いました。

余談ですが、当時、私の年齢でこの管理職に就くのは、珍しいことでした。会場を見渡しても、周りは一回り近く若い顔ぶれだったのを、覚えています。

母の死と、8日間の休み

就任から1年ほど経った頃、母が亡くなりました。

忌引きで8日間の休暇がもらえる規定でしたが、私は2〜3日で出社するつもりでした。自分の勤務に穴を空けるわけにはいかない、と思い込んでいたのです。

そう申し出た私に、2名のチームリーダーが、「穴は埋めておくから」と、私の勤務をカバーしてくれました。おかげで8日間きちんと休んで、母を見送ることができました。

派閥だ、仲良しチームだと散々書いてきましたが、こういうことがあるから、人間関係は分かりません。この件は、今でも感謝しています。

給料は「幻」と思うことにした

給料の話も、しておきます。残業代はなくなりましたが、基本給は10%アップ、ボーナスは6割アップ。退職金への影響は、後から計算し直すと、300〜500万円程度のプラスだったと思います。生涯年収(退職金を含まない)で見れば、ざっくり1,000万円くらいは上がった計算になります。

ちなみに、これが世に言う「名ばかり管理職」ではないのか、自分の待遇が管理職として妥当な水準なのかは、後になって調べました。結論として、会社は、名ばかりにはしていませんでした。そこは、正直な会社だったと思います。

ただ、当時の私は、この給料を「幻」と思うことにしました。生活水準を上げない。車のような大きな買い物はしない。差額は、できるだけ貯蓄に回す。

きっかけは、60歳になった自分を想像したことでした。本気でこの仕事をこの給料で60歳まで続けたら、自分の金銭感覚は、間違いなくおかしくなる。それくらい、多かったのです。だったら最初から、「無いもの」として扱おう。そう決めました。

結果的に、この「幻」として貯めたお金が、いま、FIRA60を目指せている資金の土台の一つになっています。あの辛い時期の副産物が、10年後の自分を助けている。人生は、分からないものです。

▶ 50代からの資産の推移については、こちらの記事で詳しく書いています → 「55歳ローン完済 × 60歳退職──FIREブログで見かける「50代からのV字回復」の正体」

管理職を外れた日のこと

管理職の任期は、49歳から52歳くらいまででした。

外れた経緯は、あっさりしたものです。会社の制度変更で、チームリーダー職は管理職ではなくなります、という説明がありました。あの噂は、本当だったわけです。

外れた瞬間、何を思ったか。解放感でも、寂しさでもありませんでした。「この仕事量で、給料はいくら下がるのかな」でした。我ながら、現実的です。ドラマチックな感慨は、何もありませんでした。始まりはあんなに衝撃的だったのに、終わりは、制度変更の説明一枚。会社の役職とは、そういうものなのでしょう。

ちなみにその後、世の中は好景気と人手不足になり、58歳の今、一般社員に戻った私が、当時の管理職と同じくらいの年収になっています。人手不足で給料が上がる。こんな時代が来るとは、あの頃は想像もしませんでした。管理職の給料の恩恵は、形を変えて、今も続いている、とも言えます。

これから打診を受けるかもしれない方へ

もし50代前後で管理職の打診を受けたら、という視点で、私からは3つだけ、お伝えします。

一つ目は、給料水準の確認です。月給だけでなく、ボーナス、そして退職金への影響まで、確認してください。私の場合、退職金まで影響しました。管理職の待遇は、「その場の月給」だけでは判断できません。ここを曖昧なまま受けては、いけないと思います。

二つ目は、今このタイミングで責任の重い立場に就くことが、自分の人生戦略にとってプラスになるかの、見極めです。50代の数年間は、定年後の生き方を準備するための、貴重な時間でもあります。その数年間が、「自分が本当に優先したい生き方・時間」とぶつからないか、です。

三つ目は、判断の軸を、自分に置くことです。「期待されているから受ける」「断りにくいから受ける」という受動的な理由ではなく、「残りの社内キャリアと、定年後の人生設計に合っているか」という、主動的な視点で決めることです。私にできなかったことだからこそ、書いておきます。

……と、偉そうに書きましたが、私自身は、当日の17時までに追い詰められて決めた人間です。説得力のなさは、お許しください。だからこそ、これから決める方には、せめて時間と情報を持って、決めてほしいのです。

チャンスがあれば踏み出すべきだ、と言いたいわけでもありません。挑戦も、安定も、リスク回避も、どれも立派な選択です。最近は「管理職はハズレくじ」「ワークライフバランス無視」という声もありますし、「生涯年収が上がるならいいじゃないか」という声もあります。色んな考えが、あっていいと思います。

もう一度やるかと聞かれたら

「経験したら、もうやらないか?」「それでも、経験した方が良かったのか?」

自分に問いかけてみましたが、答えは出ませんでした。

生涯年収は、1,000万円ほど上がりました。あのときに稼いだからこそ、いま、リタイアが視野に入っています。でも、お金だけが目的なら、もっと違う方法もあったはずです。今なら「プラス1,000万円だけ?」と思う自分もいますし、当時は、もっと稼ぎたいと思っていた自分もいた気がします。どちらも、本当の自分なのでしょう。

多分、正解なんて無いのだと思います。言い換えるなら、「選んだ方を正解にするような生き方をすれば良い」ということかもしれません。あの給料を幻として貯めた選択が、10年経って、FIRA60という形になりつつある。これは、選んだ道を後から正解にしている途中、ということなのだと思います。

まとめ──なんだか、忘れてしまった

書き終えて、改めて思います。この記事で、私は何を伝えたかったのでしょうか。正直、自分でもよく分かりません。やはり、トラウマと戦っていたのかもしれません。

お金だけが目的なら、もっと違う方法もあったはずです。断る勇気だって、あったはずです。なぜ受けたのか、今でも答えは出ません。

一つだけ、書いておかなければいけないことがあります。「部下が亡くなったら辞める」と決めて、結局、何も起こりませんでした。でもそれは、私の力ではないと思っています。事故なんて偶然で、たまたま、あの時代に無かっただけ。あっても、おかしくなかった。だから「やって良かった」と言い切る資格は、私にはありません。ただ、何も起こらなくて、本当に良かった。それだけは、言えます。

それでも、後悔はないのです。奔走したし、狼狽えたし、バカバカしいこともたくさんあったのに、不思議なくらい、辛い思い出として残っていない。あのおかしくなりそうな時間を過ごしたからこそ、その後、自分の時間というものに、真剣に向き合えたのかもしれません。このブログの名前に「時間への投資」と付けたのも、遠く辿れば、あの時期に行き着く気がします。

正解なんて無い世界でした。やらずに後悔か、やって後悔かなら、私は、やって後悔を選んだ。……いや、その後悔すら、なんだか忘れてしまいました。

今が、楽しいからかな。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。この記事が、どなたかの判断材料の一つになれば嬉しいです。

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