実家の鍵を閉めた日──両親を見送って、私が知ったこと

FIRA60ー退職

こんにちは、西風スマイルです。

58歳、サラリーマン生活もかれこれ40年。60歳での早期リタイア「FIRA60」を目指しながら、お金・時間・健康・好奇心・社会資本という「五つの富」について、あれこれ考えています。

今日は、制度の話というより、人生の最後の話です。思い出話に絡めた、人生最後のお金の話だと思って読んでください。両親を見送った、私の記録です。

父のこと ── 手の震えから、始まった

父を見送ったのは、もう20年以上前になります。私はまだ、30代でした。

父が定年して数年たったある日、「手が震える」と、両親から言われました。私は「歳のせいかな」と、軽く受け流していました。それからしばらくして、母から「パーキンソンとは、どんな病気?」と尋ねられました。

私も理解していなかったので、介護認定のできる近くのクリニックへ、病名の説明と今後の相談に行きました。その頃には、父はもう、通院に車椅子が要る体になっていました。

両親はパーキンソン病という病気を知らず、私も正直、よく分かっていませんでした。

病名の説明を受ける。介護認定を取るために通院する。その一つひとつが、すべて初めてのことでした。

今にして思えば、分かっていなかった私よりも、両親のほうが、ずっと不安だったはずです。

転機は、実家で父が熱を出したことでした。母だけでは看きれなくなり、市民病院へ。驚いたのは、病魔の進む速さでした。
まだまだ健康に見えていた父が、みるみる変わっていく。入院し続けることの難しさも、介護施設というものの存在も、私はこのとき、初めて知りました。

途中、耐性菌に感染していると告げられたときには、正直、父との間に、見えない線を引いてしまった時期もあります。これは今でも、うまく言葉にできません。会社から病院へ呼び出されたことも、何度もありました。

同じ頃、母は、がんの治療の最中でした。父の最期と、母の手術と。こんなに重なるものか、というタイミングでした。

父の最期 ── 悲しむ余裕が、なかった

父は、終末医療の施設のような場所に入りました。たぶん、そこしか選択肢がなかったのです。24時間電気のついた、集中治療室みたいな部屋のベッドの上で、亡くなりました。

人間の死というものを、私はそこで初めて、間近に見ました。尊厳とは何だろう。ベッドの上で終わることしか選べないとしたら、自分もいつか、こうなるのか──。

父の最期の日々は、悲しむ余裕がなかった、というのが本当のところです。お通夜、葬儀、お骨拾い。親戚への連絡、父の会社の方々や、ご近所への対応。段取りに追われて、何をしたか覚えていないくらいでした。

葬儀が終わって、ほっとしたとき、ようやく父のことを考えました。あっけないな、と思いました。身を粉にして働いた人の終わりが、これか、と。

ただ、当時の私はまだ若く、その実感を持ち続けることもできないまま、忙しい毎日に戻っていきました。

母のこと ── 二度目だから、できたこと

母を見送ったのは、数年前です。

母は実家で一人暮らしを頑張っていましたが、85歳の頃、ケアマネージャーさんから「次のステップを考えましょう」と言われました。
数ヶ月間、私は実家に住み込み、そのあと妻に相談して、我が家で同居することにしました。あの重い相談に、妻は軽く「いいよ」と言ってくれ、この一言には、今でも頭が上がりません。

母も、頑張りました。

引きこもらず、ショートステイにも、近所の集まりにも出かけていく。

でも、肺炎を数ヶ月ごとに繰り返して入院。転倒して大腿骨を骨折し、手術はしたものの、半分寝たきりになりました。

二度目だったから、学んでいたこともあります。

一人で抱えず、周りにお願いする。

そして——元気なうちに、母の知り合いに声をかけて、会わせておく。最後のお別れの、代わりになるように。遠方の家族のところへ、飛行機で行かせたこともありました。

週に何度も見舞いに行き、病院の陽だまりで、1時間ほどおしゃべりをしました。妻もよく見舞って、食べたいものを差し入れしてくれました。

当時は、会うたびに説教をされて、正直、腹が立ちました。食べたいもの、嫌なもののリクエストは増えるし、愚痴も多くなる。

一つひとつは小さな言葉なのに、毎回聞かされると、疲れます。──それが年月を経ると、いい思い出になっているのだから、不思議なものです。

母は最後、私の手を取って、「もう終わりか?」と私に問い、眠るように逝きました。

実家の鍵を、閉めた日

見送った直後の気持ちは、悲しみとも、「終わった」とも、少し違いました。強いて言えば、「行事を済ませた」ような感じで

本当の別れは、そのあとに来ました。

遺品を整理し、遺産を整理し、実家を売却して──
最後に実家の鍵を閉めたとき、急に、思い出も空間も、何もかも無くなるのだと気づいて、急に寂しくなり写真を撮りました。

孫が来たら、必ず家の前で撮っていた、あの場所で。最後の一枚は、私ひとりで写って、終わりにしました。

両親の介護問題が自分の人生から無くなっていたに気づいたのは、それから2、3年してからです。老後問題の一つが解決していることに、ようやく気がついた、というわけです。

今でも、街中で実家と同じような瓦を見かけると、寂しくなります。縁側の木漏れ日や、兄弟との思い出が、ふっと戻ってきます。

誰にも言ったことのない、本音

誰にも言ったことのない本音を、一つだけ書きます。

両親は、恵まれているほうだと分かっています。お金の問題も、住まいの問題も、病院から介護施設への切り替えも、恵まれていたと思えます。

それでも私は、あの終わり方は、嫌でした。

一方で、父も母も、意識の最後に、立ち会って見送る身内がいた。私はそれを、奇跡に近いことだったと思っています。本人たちも、最後を一人で行かずに済んだ。そして私に、死というものを教えてくれました。

人間は、一人では死ねないのです。誰かが、その終わりを締めなくてはならない。
だからこそ——終わりを意識するから、その前の「生きる」を、一生懸命になれるのかもしれません。

ここから、お金の話 ── 計画のなかった両親が、なんとかなった理由

さて、ここからは、この思い出話の裏側にあった、お金の話をします。

正直に言うと、両親に、老後の計画性はありませんでした。ライフプランも、キャッシュフロー表も、もちろんありません。

介護や医療にいくらかかるかなんて、考えたこともなかったはずです。それでも、なんとかなりました。振り返ると、理由は三つあります。

一つは、持ち家だったこと。(資産になる家を持っていたこと)

住まいの費用が、老後にのしかかってこなかった。最後には、実家の売却が、諸々の整理の支えにもなりました。

二つ目は、年金です。

多くはなくても、ある程度の金額が毎月きちんと入ってくる収入が、生活の土台を支えてくれました。

そして三つ目が、国の制度です。

父のときも、母のときも、医療費の自己負担には、高額療養費制度という上限がありました。入院が続いても、手術をしても、支払いは毎月、一定額で頭打ちになる。介護保険も、施設やヘルパーさんの費用を支えてくれました。「医療費は青天井」というイメージとは、実際はずいぶん違ったのです。

計画がなくても、この三つが、両親の老後を支えました。でも、昔はそれでよかったのです。両親も、それしか知らなかったのですから。

母と、二人でやった「会計のスリム化」

ただ、何もしなかったわけではありません。ここが、父のときとの、いちばんの違いでした。

母が我が家に来たとき、母の手元に、貯蓄はほとんどありませんでした。父の闘病と、自分のがんの治療を経て、使い果たしていたのです。(やはり高齢になると家計管理はルーズになる)

そこで私は、母と話し合って、母の会計をスリム化しました。使っていない固定費をやめ、支出を年金の中に収める。そして、年金から少しずつ、貯蓄していく。(我が家に来た事で固定費の削減になった)

数年かけて、母の口座には、自分の医療費と、自分の葬儀代くらいは出せるお金が、貯まりました。

金額にすれば、大きな話ではありません。でも、これは母の尊厳の話だったと、私は思っています。「自分の最後の費用は、自分のお金で払える」。そのことが、母にとっても、私たち家族にとっても、静かな安心になりました。

父のときは、何も分からないまま進んで、迷ってばかりでした。母のときは、学んでいたから、選べました。生きているうちにお別れをさせてあげられたのも、お金を整えられたのも、二度目だったからです。

医療費は、青天井ではない

両親を見送って、私がいちばん伝えたいことは、これです。

計画的にすれば、老後の医療費は、青天井のようには膨らみません。高額療養費制度という上限があり、介護保険があり、年金という土台がある。その仕組みを知って、自分の数字に当てはめて、備えておく。それだけで、「破産するかもしれない」という漠然とした恐怖は、「毎月ここまで」という、手に負える数字に変わります。

両親は、知らないまま、運と制度に支えられました。私たちの世代は、知ることができます。調べ、理解し、選ぶことができます。そして、次に繋げられるかもしれません。資産も、思いも、子どもたちに。

それが正解かどうかは、分かりません。

ただ、実家の鍵を閉めたあの日から、私はそう思って生きています。

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